低く呼ぶ婆さんのしわがれ声がリン、と呼ぶ。
 はあい、と答えるリンの声も、そんな時は奇妙に甲高い作り声で好きではない。
 そして大抵、それきりリンは戻って来なかった。じりじりするままに、ただ座って杯を一人で干すことしかできない。そのうちに別の娼妓が申し訳なさそうに顔を出す。
「ごめんね周作さん。代わりにうちがお相手するけえ、許しちゃってや」
「リンは?」
「それは聞かんといてやってよ」
「ええわ、今日は帰るよ」
「あら、そう言わんと。うちではあかんの?そんなにリンちゃん一筋なん?周作さんは固いねえ」
「真面目やけえ」
「悪所通いには向かんねえ」
 周作は静かに答えた。
「あんた、顔色が悪いで。大丈夫なんか」
 相手の遊女がはっとして頬を抑え鏡を覗いた。白粉の下の青ざめた隈を、遊びなれてもいないはずの若者に指摘され不意を付かれた。
「姐さん、ちゃんと供養に行ったらなね」
 憎々しい笑い声が聞こえて、娼妓が鋭く悪態をついた。
(流したんか?)
 すっと体が冷える心地がして、周作は苦界の一面を垣間見た。思わず反らした顔の窓の外に、恰幅の良い、大柄で年嵩の軍人が鴨居をくぐるのが見えた。リンを贔屓にしている将校だ。
 夜風の冷たい坂道を登っていく。屈辱が痩身を針のように刺し、周作は歯を食いしばった。待っているのは一人寝の冷たい寝床だ。将校とすれ違いざまに敬礼して通り過ぎるのを待っていると、連れの下士官が目配せをした。耳打ちと冷笑が甦る。
 彼は確かに無力だが、リンの心は誰よりも周作のもとにあるという確信だけはある。言葉だけではなく、身体だけでなく、心を重ねている実感がある。
 また会いたい、次はいつ来れるのなど遊女の常套手段と笑われても、どうしてもそれだけとは思えなかった。
 店の格子窓から白い手が伸びてきて、懐紙が突き出された。中を開くと、竜胆の花の押し花があった。閉まる前の窓の向こうに、悲しげな表情と頬に光る涙が見えた気がした。
「嫉妬を煽るんも、小細工の贈り物も、女郎の常套手段やで」
 友人はあきれ顔で言う。
「押し花なんぞ、山のように箪笥に用意しとるわ。お前はどんだけ純情なんや」
 帰り道に周作は、リンを買うために使うはずだった金で、美しい茶碗を一つ、買い求めた。
 彼らに出来なくて、自分にしてやれる贈り物がただ一つだけある。

「リン、最近身が入っとらんようやなて言われよったで」
 老婆はしわがれ声で低く言う。
「あの男は早うに切りや。変な夢見やんと、身請けなんぞできやせんよ。貧乏書生の実家にやてそんな金あるかいな。お父ちゃんに叱られてしょんぼりしてそれで終わりや、あれはな、ぼんぼんやけえ」
 リンは返事をしなかった。リン!聞いとるん!鋭い叱責の声にだけ、はあい、と見当違いの調子っぱずれな声で高く答えた。
「客に本気になるとほかの客が離れて行くで。大店(おおだな)の売れっ子ならいざ知らず、うちみたいな場末の店で客が離れたらお前、今度は橋で客引きやらなあかんなるで」
 リンはテルにこっそり言った。
「うちは、たまに会えればそれでええん。あん人が所帯持っても文句言わんよ。細う長う、通って欲しいなあ」


「何や悲しい顔しよるのう」
「席を抜けてきたんよ」
 それからリンはしなだれかかって周作の腕を取った。
「うち最近、身が入っとらん言われとるん」
 あんたのせいよと匂わせて喜ばせよう、嬉しげな顔が見たいと思って甘える声を出したのに、周作の顔は到っていつも通りで、表情から喜びも驚きも見えなかった。いつも物静かで寡黙な彼だから不思議ではないが、今日はその表情が少しだけ沈痛に見えた。
 彼は他の客とはどこか違う。そんな手管では喜ばない。ならどうしたら笑ってくれるんやろ?リンがはじめての相手だった周作は、今時珍しいほど純情な若い客で、たいして経験もないはずなのに、こうして女郎をやきもきさせる。一度だけリンの代わりに相手をしてくれた年嵩の姐さんが言った。
「あん人はあかんわ、長うは来れん客やで。惚れられとるて期待せんとき」
「え?なんでよ?」
 リンは心底不思議そうな顔をした。
「床には性格が出るかんね。優しい、繊細なお人やわ。気持ちまで抱いてこようするん。あれは危ないわ」
「なんや姐さん、女将とおんなじこと言いよるだけやん。深入りすなって、そういう事やろ。わかってるよそんなん」
 周作の手がリンの手を握り、彼の顔が間近にあった。
「なあリン、嫁に来るか」
「え?」
「わしの嫁になってくれ。結婚しようや。そしたら自由になる。もう誰の気兼ねものう二人きりで会えるやろ」
 リンは手を振り払った。その表情に、喜びよりもずっと強い恐れと苦痛を見た周作は、はじめて驚いた顔をした。
「あんたそれ、本気で言うとるん?」
「なんや、泣きよんか」
「なあ、そんな考えは忘れてしもうて」
「なんでや」
「無理に決まってるからや」
 すると、周作も顔をそむけ、心持ち暗い顔になった。
「それは、言うてみなわからん」
「いやや、言わんといて。頼むけえ。うちは自由になりたいわけやない。この仕事にゃ感謝しとるし。周作さんにはそれがわかっとらんのよ」


 数日後のことだった。眼鏡をかけた年配の女性がやって来た。顔は押さえた怒りで白くなっている。
「あんたら店の子にどういう教育しとるかね?若いまともな、前途多望な青年捕まえて、だまくらかせ言うて教えよるん?白木リン言う子会わせてや」
 彼女はいかにもきちっとした市政の婦人で、その着こなしから空気までが遊び女たちとは違っている。遠ざかってしばらくする今ではリンも、会うとその清潔さと厳しさに身がすくむ思いがする。女性はリンを上から下まで軽蔑のまなざしで見た。
「はあ、あんたなん、どこの出身やの」
「広島…」
「リン、お前は下がっとき」
 女将が顎で指図し、リンは引き下がろうとした。甲高い声はもうわかった、とでも言いたげに今度は女将を相手に居丈高に質問を続けている。
「あん家の嫁はほんまに呑気で、ほいでもあの子が好きや言うとるしなんて言うて、アホかいな!ほんで、どこの家の出身で、どこん学校出とるん」
「学校てあんた、ここに来るような子がそげなん出とりますかいな。リンはわしが駅前で拾うたがじゃ」
「駅前で拾うた?学校も出とらん?すると字も算術も習うとらんわけ?そげな子がようまともな家の嫁になろう思うわね!恥ずかしゅうないんかね」


「冴えん顔しとるね、周作さん」
 沈黙が落ちた。二人とも待っていた。決定的な言葉を。周作はリンの顔を見ない。リンはずっとその横顔を眺めていた。やっと彼が重い口を開いた。
「なあリン、しばらく来れんかもしれん」
「そう?仕方ないねえ」
 それから、彼女にしては強い声で言った。
「なあ、しばらくと言わんで、もう来んときいな」
「叔母さんが迷惑かけたやろ。すまんかった」
「そんなん、いつものことやわ。慣れとるし」
 突き放した声に含まれる苦笑まじりの響きに、周作の中で何かが動いた。まっすぐにこちらを見た。リンはひるんだ。いやや。言わんといて。お願いや。心に何度もつぶやいた。
 周作は一言ずつ、区切って言った。
「リン、わしはもう来れん。これが最後や」
 リンのまなじりに涙が盛り上がりかけて、遊女のプライド、危うく抑えた。そして作り笑顔をして溜息としなを作って言う。
「あるか、ないかなんじゃねえ、あんたもそうね」
 周作は不思議そうに見上げた。
「全部か、でなけりゃナシなんよ。そういう人は遊び場にゃ向かん。でもうちらはそうはいかん。どん人にも、ナシや。それがうちらの商売」
 何か言いかけた周作をリンは性急に遮った。
「なあもうええよ。可愛いお嫁さんもろうて、幸せに暮らし。あんたが幸せになるんがうちの幸せや。なあ周作さん。もう来んのよね。わかったわ。最後なんよ。なあ早う、早う抱いてや」


「手紙、書いてもええか」
 ああ、そうやった。周作は思い直した。字が読めんやったか。
「困るんは名札なんよね。代筆してくれる子もよう間違えよるし」
「こないだやった、手習い本はどうした」
「暇もないしねえ…」
 別のことに気を取られた重たい会話だった。ふと周作は傍らのカバンを引き寄せた。
「そうか。ちょっと待ってや。これに書いたるわ」
 周作は一文字一文字を、ゆっくりと時間をかけて書いていた。一つ一つに丁寧に振り仮名を振った。
「さあできた。これを写せばええやろ。ほんで練習しい。自分の名前ぐらい書けんでって言うたれや」
 リンはその不思議な記号の羅列を受け取った。いくら眺めて見ても、所々の片仮名以外は彼女に何の意味も持たず、まじないにしか見えなかった。手習いの本?練習?前から何気ない風を装って周作が彼女にさせたがっていた事があり、リンは考えまいとし、頭から追い出して拒否していた。
 だからリンは文字そのものよりも、受け取った紙に滲む涙の跡だけをいつまでも眺めていた。それからあの周作が好きだった花やぐような底抜けに明るい笑顔を見せて押しいただいた。
「これうち、お守りにするわ。あんたの形見や思うて肌身離さず持っとくけえ」
 周作の手が膝の上でぎゅうっと握りしめられ、それからゆるんだ。
「さよならや、リン」
「ほいだら、元気でな、周作さん」


(顔を見ればつらくなる。もう来ん。もう会わん)
 全部自分のやったことだ。
 出来もしない約束、破られるための夢、失望、挫折、それに罪悪感まで重なって周作を押しつぶした。それでも冷えた胸の下がぽっかりと空洞になった分、身体が軽くもある。別れの一幕が醜態や叫びなく、静かに終わったことにひそかにほっとしている自分がいる。精一杯、やるだけのことはやった。奇妙な達成感すらあった。
(別れの朝は格別やで。新しい出会いが待ってるかもしれんけのう)
 遊び人の友人は笑って言っていた。わしはもうごめんやが。手ひどい火傷や。もう懲りた。
 よくあることだろう、ここでは千も万も繰り返された口約束に裏切りと別れだ。
 けれど、一人一人身を切るつらさは違うもの。産まれてきた命が一人一人違うように、それだけが替え難い世に唯一の苦しさのはずだ。
 何よりも周作の若い心を苦しめたのは、この恋が彼の人生において唯一無二とまではないかもしれないと少しでも思ってしまった事実だった。
 そうだ彼女はいつだって、どこかで距離を置いていたではないか。最初から期待してはいなかった。わかっていたのだ、最初から最後まで。見透かされていた。その時は二人で夢中で、二人で楽しんでいても、都合の悪いどこかに常にお互いの目をつぶっていた。
 見聞きした事があり、背中を向けて見ないようにしていたことがあった。誰のとも知れない子を流しているリン、彼女はそれを気に病むそぶりもない。リンは、彼女自身がひどく傷つけられた子供だ。どんな環境にいても常に笑い、しなやかに強くたくましく生きながらも、根底ではこうして誰の手も届かないほど深く、底も見えないほどの亀裂に隔てられている。
 母をはじめとした、仲良くご近所付き合いを続けている隣保班の人々の顔が次々に思い出される。姉もそうだが手に職を付け働いている女性も多かった。さりげなく手習いの本を置いてみても、リンはまるで興味を示さない。読めるようになりたいという気持ちがないのだ。文字をおまじないのように見るだけで、その意味を理解しようとはしない。周作が物足りなく不満に思うそれがリンの当たり前の世界で、周作が漠然と想像している家庭内における女性像とはあまりにもかけ離れていた。彼の普通に彼女を寄せようとする努力に、彼女は無言の抗議をしていた。
 気に入ったならたまに通い続けてやればええやないか、そう言われる。だが通い続け、関係を重ねればいつか、望まれずに闇に葬られていく子供たちの中に、自分の子も含まれる日が来るかもしれない。周作には考えるだけで耐えられない。潔癖と呼ばれればそれまでだ。だがそういうのが耐えられないと思う男も存在する。父と母にあふれる愛情を注がれ、広島の中学(旧制中学)に通わせてもらった周作だ。例え親の愛を受けていても、無頓着な男だっているのかもしれない。だが周作はできない。
 最初はリンこそがしがらみや先入観の世界から彼を解き放ってくれる存在だと思った。
 だが、リンはリンなりの、もっと深く足を取られて身動きさえならない沼のただ中にいた。この溝は埋まらない。壁は超えられない。二人の世界を寄りあわせ、織って一つの布とすることは、出来ない。
 最後の最後に、どこかで彼女は、彼をお客さんだと思い、彼は遊女だと思っていた。そこには金銭が介在し、利害が派生していた。対等ではなかったし、二人ともそのことを知っている。だから仕方ないと言う。さよならと言う。浄瑠璃の運命の恋のごとく、この肌と肌を引き剥がすことができないほどに離れがたく、よって道行の果てに心中とまでの存在にはなれなかった。
 もうこれ以上考えたくない。
 忘れたい。忘れさせてほしい。
 誰か、この胸のぽっかりと空いた隙間を埋めてほしい。
 彼女を本当に愛していたかどうか、もうわからなくなっている。
 仕方ないなと思ってしまった。父の切々とさとす言葉の一つ一つに、もっともだと思ってしまった。
 リンの声が聞こえてくる。
(あきらめられるようならそれは、本気ではなかったいうことよ)
 どうしても彼女でなければならないという確信が、最後の一歩が持てなかった。
(わしはそん程度の気持ちで、遊女を振り回したんか)
 将校姿の軍人たちと次々すれ違う。
 嫉妬の焔が鈍く周作の中で燃え、また歯を食いしばって押し殺す。これほどまでに彼女に執着した理由がそこにある。ほかの男より勝っていると誇示するために、持てる手段があればひけらかす。そんなずるい男の見栄を振りかざしていただけだ。


 リンは窓にもたれて、周作の後ろ姿をいつまでも眺めていた。消え去るまでずっと。
 よくあることだ。女を知らない若者なら、一度は通る道で、自分はその通り道になっただけのことだ。
 きっぱりともう来ない、と言う。彼の潔い男らしさが嬉しかった。ほらね、うちの惚れた男は、別れ方まで惚れ惚れさせるわ。
 彼はきっと忘れるだろう。でも彼女は忘れない。
 彼の涙が染みた紙に糸を通し、お守り袋に大切に首から下げた。涙は乾いても、肌身離さず持っておこうと心に誓う。確かにあった好意のあかし、紙に染みた涙をいつまでもこの胸に抱いている。二人の世界を阻む亀裂や心変わり、彼の諦めのことなど考えない。周作が一時であれ、本当にリンのことを思ってくれた気持ち、嫁にとさえ言ってくれたその気持ちだけを拾ってこの胸に抱いている。この苦界において泥の中であがく彼女がいつか死ぬ日まで、彼女を思い出の灯火で温めてくれるだろう。
 女たちを遊びでおもちゃにした挙句、それが当たり前だと思っている男たちがいる。踏みにじっても石を蹴飛ばした程度か、厠に行ってすっきりした程度にしか思わない男たちがいる。軍人たちはお国のために戦っとるわしらの役に立てるんじゃ、感謝しろと言う。
 そんな百人の男の中に、数人だけ存在する特別な男がいる。
 遊ばれる事にも、傷付くことにもなれた遊女にさえ、消せない痕を付け、一生忘れられない思い出を残していく。
 それは、あるか、ないかの遊び場には向かない男だけが成し得る事なのだ。











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