「それは早うに身を固めさせるに限るで」
 顛末を聞いたおじは、いかにも心得顔で言った。
 嫁に欲しい子がおるんやが、と息子におずおずと切り出され、北條円太郎はほう、どこの誰か?お前もそげな年になったかとほほ笑んだ。
 息子は言葉に詰まり、言い淀んでいる。
「朝日地区に…住んでおって」
 円太郎の顔が険しくなった。まさか、と言いかけると、息子は下を向いた。
 おじは眉を寄せて腕を組みながら何度もうなずく。
「周作君は真面目やけえ、時間空けば空くほど考えすぎてしまうで。ええ相手を早うに探してやらんと。こう言っちゃ何やが、今のご時世なら多少高望みでも手が届くで」

 自分の部屋で、周作は唇を噛んでいた。
(わしとて男や。たかが女一人、諦められんことがあるものか)
 結局断念せざるを得なかった。諦めさせられたのではなく、あきらめた。幸せな未来が描けない。身請けの金もなければ、恋に浮かれる時代でもない。若い同級生が皆、次々に出兵していく中の焦燥や恐怖、後ろめたさもある。
 リンは結婚の話は最初からしたがらなかった。いつも明るさを無理に装っては話をそらせていた。
(なあ、今が良ければそれでええやん?他の何も考えんと、ただこうしてたい。それだけや)
 何よりリンは逃げたい、救って欲しいとは思っていない。そんな希望を抱くには世間も、男達も知りすぎている。
 彼女がそうしようとしているように、遊郭によくある気紛れの戯れ言で終わらせてしまえばいい。それしかない。
 涙を落とした彼を抱き締めた白い腕を忘れられそうもない。息が止まるほど抱き合った最後の夜を消せそうにない。
 それも今となっては全てが思い出だ。思い出にして別の人生を歩むと決めた。

「どんながええんか、周作君。条件を言うてみい、条件を」
「このままちゅうわけいかんやろ。お母さんの具合がああでは、相手を探すにしても急がにゃならんで」
 おじと父が代わる代わる言う。
 嫁取りなどもう、どうだっていい。投げやりに考えながらも、どうしても二の足を踏んでいた。
 心より体が拒否してしまうのだ。ええよ、誰でも。そのひとことが出ない。話を持ってこられれば嫌じゃとしか答えられない。
 畳に寝転び、天井を見つめてから寝返りをうつ。柱の古くなった木の色を眺め、畳の向こうの空間を見つめた。
 この家に一緒に暮らし、このかたわらにいて、違和感なく座っていられる、それはどんな娘だろう?
 過去に好きだと思ったような気がする女たちの顔を次々に思い浮かべようとするが、どれもしっくりしない。無理矢理にリンを想像してみようとしても場にそぐわない生々しさが漂い、かえって苦しくなるだけだった。
――どうも、おじゃまします
ふいに、正面にちょこんと正座して座っている少女がお辞儀をするイメージが湧いた。
 泡のように記憶の奥底から浮かび上ってきた面影がはじけ、周作ははっとしてそれから驚いた。何をばかなと振り払おうとしても、一度取り付いてしまえば他に思い浮かばない。
(そうや、ここに誰かいるとすりゃあ)
 周作の指が無意識に動いた。
(あんなんなら自然なんやが)
「周作、ご飯やで」
 生返事をしながら起き上がるうちに、そこから堰を切ったように、ぼんやりとしていた思考が次第に形を取ってはっきりしてきた。
(姉ちゃんみたいな我の強いんはきつい。よう気の付いて働くと言われている隣の地区の子は隙がなさすぎて疲れそうや)
 同級生内でも評判の美人だった娘は承知してくれそうだと囁かれていたが、周作は心が沈んだ。父が名前を出した近所の女学校まで出た才媛は自信たっぷりな顔つきで気が引けた。あかん、気に入らん、と口に出すまでもなく、嫌な顔色、気の乗らない気配に、父もため息をつく。そうやってとりつく島もなくこうしている。
 だがこのままでは、本当にその中の一人に強引に決められてしまいそうだ。
(どんな子ならええかて?そうや、あんな感じならええわ。大人しゅうて、小まくて、おっとりしとる。なのに妙に度胸がよくて、びっくりするような事もやる。よう笑うて可愛い、純な娘や)
 どこにいるか、生きているかもわからない幻の少女の面影だ。夢ではない。彼女の荷を胸で結んでやった時に触れたぬくみをはっきりと覚えている。あれは周作が12の年だった。
 だがまさか、ぼうっとした娘がいい、などとも言いかねる。
 音が聞こえてくる。
 苦労してゆっくりと足を引きずって歩く母が米櫃を傍らに座った時、口が動いていた。
「うらの、すず」
「何?」
 先に反応したのは、新聞に没頭していると見えた父だった。
「浦野すず、いう娘がおる」
「どこの娘かいの?」
「広島や」
「どこの家のどんな娘や?住所は?」
「わからん。海苔すきをやっとる家で、海苔を料理屋に卸しとる。名前は浦野すず。それしかわからん」
「広島の漁師の娘か」
「漁師いうても星の数ほどおりますけえ」
「昔のことで行方もわからんし、きっと見つからんやろうが」
 せめて、浦野すずに面影が似ている娘であればと思った。そう言おうとしたのだ。だが口から出てしまった。
「わしはその子でなければ、嫁はもらわん」

 その次の日から、父と子二人で連れだって、広島に出かけては訪ね歩く日々が始まった。おじも自分の広島の取引先づてに探してみてくれると言う。
「今日行ったんはこの地区の旅館や」
「こことここは知らん言いよった」
「ならば今度はあっち、お前はこっちや」
「わかった」
 父と子は、ひたすらに歩いた。

「あのう、浦野さん言う海苔すきをやっとるうちをご存じないやろうか」
「はあ?どないしんさったん?」
「ちょっと、行方を探しちょります」
 言う端から周作は頬がかあっと熱くなる。相手は不審げな顔をして首を振るのが常だった。
「あんた、知りんさる?」
「わからんなあ」

 旅館ふたばの電話が鳴った。
(こちらは、旅館のふたばさんですか)
「はい、そうですが」
(そちらに、浦野いう海苔の漁師さんが、出入りしとりませんでしょうか。ちょいとわけあって、行方を探しとります)
「浦野さんは来よらんなってかなり経つなあ」
(知っとりますか?広島の旅館にかたっぱしから訪ね歩いてもう17件目や。えろう苦労してますわ)
「江波は埋め立てで海苔の漁師もようけ廃業しましたんや」
(江波?江波の漁師さんでっか。娘がおったりしますかのう)
「おりますよ、可愛い、小んまいのがおつかいに来よったけえ、よう覚えとるわ。江波でもまだ海苔やっとる家があるけえ、ちょいと待ってくださいや。聞いてみたげますわ」

 周作の父は声をひそめて母に囁いた。
「手がかりあったで。どうやら、あながち嘘を言いよるわけでもないらしい」
 サンは静かに答えた。
「急がんでもわたしはええんですよ。何でもゆっくりやればええことやし、径子もよう来てくれよるし」
「あんなことがあった後に、周作の方がから言い出しよったんじゃ。気が変わらんうちにまとめるに限るわい」

 周作の方にも、変化はあった。体が動いていると、張りも出てくる。暗い青白い表情で押し黙っていた頃よりも血色がよくなり、生気が戻ってきていた。探索は最初から半ばあきらめていながらも、かすかに存在していた痕跡はある。
「浦野いう海苔すきの漁師なあ。確かにおりんさったが、今はどうしてるんか」
 周作の心臓が早鐘を打った。
「住所はわからんもんでしょうか」
「さてなあ、すまんのう」
 浦野という漁師が存在している。
 少女を探す過程が楽しいと感じはじめていた周作にも、実在がちらつき始めたとなると漠然とした不安が宿った。
(もう嫁に行っとるかもしれん。記憶とはまるで違っとるかも。そしたらわしは、それからどうしたらええんやろう)

 物思いに沈む周作に、食事の席で父が突然言った。
「周作、見付かったで」
「えっ?」
 不意を突かれて思わず変な声が出てしまった。
「明日、会いにいくから支度せえよ」
 母の方がおろおろした声を出した。
「明日とはまた急な。向こうさんも驚かはるでしょうに」
「急いうことはないやろう。遅すぎたくらいや」
 もう数度、内密に人をやって調べさせている。父親には手紙をやって釣書も同封し、明日行くことも伝えてあることを円太郎は言わなかった。
 息子は俄には信じがたい顔をしている。
(ほんまに浦野すずなんか?一体いくつになっとるんやろう)
 母が心を読んだかのように言う。
「ほいで、その浦野さんいう家にほんまにすずさん言う娘さんがおりんさるんですか。いくつの子なんやろ」
「二人姉妹で兄が出征しとるそうや。上がすずさん、下がすみさんいうらしいわ。周作、すずさんで間違いはないんやな、すみさんとちごうてか?」
「すずさんや」
 答えるのがやっとだった。
 モモヒキのすそ布ににじむ文字の角度まではっきりと記憶にある。
「18、数えで19言うたわ。ちょうどええ年や。女学校には行っとらんようやが、高等小学校でも成績は悪うなかったいうことや」
「そんなことまで調べたんか?」
「のんびりしとるが気立てのええ働きもんやと。周作、わしも異存はない。ええで。もらいに行こう」
 周作は返事もせずにうつむいている。脈が波打って手首でガンガン鳴っている。
(ほんまにあの子なんか。同じ名前の別人と違うんか)
 名前も同じなら年齢も合う。
「ええな周作」
 畳み掛ける父の厳しい声に、重く口を開いたが、頬は真っ赤になっていた。
「断られるかもしれん」
「まあ断らんやろ」
 言外に漁師の娘ならばこんないい話を断るはずがないとの含みがある。
 父は教養にも知識欲にも誇りを持っている。四年生で失業、裕福でなくなっても、無理をしてまで広島の中学に周作を通わせた。工廠にいられるのも、学問のお陰だ。
女とは言っても嫁には女学校ぐらいは出ていて欲しいと言うのが父の口癖で、だから小学校しか出ていない漁師の娘でもいいと言うのは、父の周作への思いやりだった。

 白木リンの話を出した後父親に呼ばれ、周作は仏間に正座していた。
「なあ、周作。このうちのどこに身請け出来る余裕の金なぞあるかいの。厳しい世情じゃ。じゃが金や女郎やからだけで反対しとるわけやない。遊郭にも身内の不幸やら、このご時世で身を落としよる良か所の子女もおる。したがこん娘はどことも知れん浮浪児上がりで学校にもろくに行きよらんで」
 言い返すことも出来ず、周作はうつむいて唇を噛んでいるだけだった。
「子供を育てるんは母親の役目やぞ。手習いも見てやれん。回覧板も読めにゃ手紙も書けん。金勘定、家計のやりくりはどうする?出来ると思うか?」
――うちは今の生活に不満はないよ。三食に困らん生活しとる。残飯ばっか食うとった頃とは段違いや。お客さんもええ人ばかりとは限らんが、うちはここに居場所がある。
「婦人会や隣保館でお母さんがどがいな思いをすることになるか、お前は考えたことがあるか?周作。そのリンさんも籠の鳥が恋しいいうことになるんやないか」
――なあ周作さん、あんたの家には、うちの居場所はあるんかな?
 白木リンは周作に新しい世界を見せてくれた。違う物の見方を開き、彼の肩の力を抜いて楽にしてくれた。裏を返せば狭い世界で常識とされている価値観には添うことが出来ず、眉を潜められ背中を向けられてしまう。
 少ない給与を握り、やっと会いに行っても、軍人が指名すれば後回しにされる。ごめんな周作さん、うちも辛いんよ、そう言われてすごすごと戻る夜の情けなさといったらない。
 小さな亀裂、苦い失望、浅はかさを思い知らされる夜をいくつも積み重ねた結果、ここにいる。まだ甘い匂いが漂い残っているとしても、リンがこの地区にも北条家にも受け入れられ、馴染める要素はないことは、周作にもわかっていた。
 机の上にぽつんと置かれたりんどう柄の茶碗がやるせなく転がっている。使われないまま、いかにも場違いな美しさで。
 とっさに割ろうとしたが、のろのろと腕は落ちた。グシャグシャと紙に包んで納屋へ放り込む。
――答えられんなら、わかっとるんやないの。もう来たらあかんよ。心配させんと、可愛いお嫁さんもろうて、幸せに暮らし。それがうちの幸せや。周作さん、あんたが幸せになるんが。

 少女の声が頭に響き渡った。たった今聞いたかのように。
――弱ったねえ、おつかいせんとあかんのに
 心を蝕む辛いやり取りが今、急激に褪せてかすんだ。周作の胸に小さな少女の姿が落ちてきて一杯になっていった。
 何も知らなかった子供時代の幸福な記憶を鮮やかに彩る一場面だ。
 ちらつく面影はあくまで愛らしく、あどけない小さな少女のもので、どう想像しても大人の女の姿にはならず、まるで想像出来なかった。

 浦野十郎は穏やかで落ち着いた風格のある漁師で、一通りの挨拶が終わると話の途中でじっと周作に目を据えた。
「周作さん言うたが、あんたさんはいくつになりんさる」
「はあ、23になります。呉の軍法会議所で録事を勤めちょります」
 彼女が親戚の家に出掛けているとのことで、家にいたのは両親だけだった。
 母親はひどく驚き、大慌てで娘を呼び戻そうと電話をしに走って行ったが、父親は違った。
 十郎と円太郎の間では既に内々に話は通じているようだったから、このやりとりは周作の品定めにすぎない。
 娘の姿がないので、周作も落ち着いた受け答えが出来た。この父親は知っての上で姉妹をわざと外し、静かに話せる席を用意してくれたようだった。
 十郎は、周作から目を離さず、それから茶を一口すするとこう言った。
「周作さん、すずはあん通りぼーっとしちょってなんも気のきかん、おまけにおっちょこちょいで言うてみればとにかくフツツカ者じゃあ。出征中の兄にもいつも怒られとって、とてもどこに出しても恥ずかしゅうない娘とは言えん。器量は妹のすみの方がええし、取り柄も何もない。あんたさんは、ほんまにあれでええんかいな」
「すずさんさえ、ええ言うてくれたら、どうかよろしゅうお願いします」
 声の震えを押さえ、低くはっきりと言う自分を、周作はどこか違う場所から別人が見ている景色のように感じていた。
「こんなに急な事でしかも勝手なうちの都合じゃ。申し訳のう思うちょりますが、ひとつわしからもお願い致します」
 円太郎が後を引き取り、二人は深々と頭を下げた。

 帰りの電車内できちんと受け答えをした息子を誇らしげに眺め、円太郎は思いやるように言った。
「本人には会えず仕舞いやったなあ」
「いや」
 円太郎は驚いたように周作の顔を見た。
「おったで」
「…そうか」
 父はそれ以上何も聞かなかった。

 二人が呉に戻るのと入れ替わるように、仲人役の小林夫妻のもとへ、彼女の両親が挨拶に訪れたと言う。北條家では紋付き袴が取り出され、仕立て直しが始まった。襖が取り払われ、小林夫妻が手伝って大掃除をする。食材の手配をし、日取りを決められて、寺には姉が坊さんの手配をしに走った。
 浦野家から娘がどうしても嫌じゃと言うて、えろうすんまへん、という連絡は最後まで来ない。

 花嫁は妹らしき娘と明るくさざめきながら入ってきた。彼女が驚くほど屈託ないのと比例して、周作は朝からどんどん緊張が増している。
 昨夜は一睡もしていない。
 周囲はぐいぐい進んで、気持ちは置いてきぼりだ。急流に流されている。自分の人生であるはずなのに。
 顔をあげて花嫁の顔を見ることが出来ない。
 いざとなってどうしても嫌になったわけではない。そわそわした素振りを見せて笑われてさえいた。ただ展開の速さについていけない。早う早うと急かされて、本人無視でとんとん拍子に話は進んだ。結局彼女とは一言も言葉を交わさず仕舞いだ。
(こんなに強引に決めてほんまにええんか?大丈夫なんか?)
 無理だ。正視できない。不安もあるがとにかく恥ずかしく、彼女の顔が見られない。その上心が痛み、苦しくてならない。
 隣に座るのは漠然と想像していたよりはるかに成熟した、一人の生身の女だった。質素ながらも着飾った花嫁は父親の容赦ない批評とは裏腹に、決して不細工でも漁師風でもない。まぁよさげな。綺麗やわぁ。そんな囁きにふさわしい愛らしさだった。彼女が美しいほど、無垢なほど、清らかさが輝かしいほどに、周作は体に力が入るのを感じた。
 仲人の小林のおばはチクリと皮肉をはさんで来る。
「まともな家の、まともな娘さんやねえ。ああ安心。良かったわぁ」
 浦野すずを探す過程に心を奪われ、やっと過去のものとなりはじめていたかさぶたを剥がされ、血がにじんだ。
 おばは父の姉でこの家で生まれ育った。実家の北條家に、よりによって女郎を嫁に入れようとするなど到底容認できなかったのだ。そのおばが花嫁をちやほやする姿を見るに耐えない。
 望んではいけないものを望み、無理を通した我が儘は驚くほどすんなりと受け入れられてしまった。受け取る資格のない価値あるものをどうぞと差し出され、背中に手を回すこともできない。
 花嫁が少女のようにのんきにモンペをぬぎ、母親に叱られている。場がその子供っぽさになごみ、笑いでさざめいたが、周作は鋭く胸を刺されて体が強ばるのを感じた。
(能天気なことじゃ。まるで子供やないか。きっと何もわかってない。突然連れて来られ、よう知りもせん男に従わなあかんのに)
 責任、という言葉が落ちてきた。人一人の命とからだを預かる意味が、父や母の希望が、この慣れ親しんだ家屋が、四方から迫ってくる。
(すずさんに不安はないんか。わしと二人になったらやっぱり嫌じゃと、泣いて帰りたい言いやせんか)
 もう、後戻りはできない。
 再確認する。周作は悟った。父の反対、母の悲しみの理由がわかった。頭でも心でもまだ理解しきれていなかった事、家を継ぐ意味が奈落に落ちるように納得できた。
(このご時世、父に何かあればわしが家長になるんや。北條の家を継がなあかん。報国の志を持って戦地におる同輩らにも申し訳ない)
 若く愛らしい花嫁の顔を見られないままに罪悪感と不安、緊張と危惧を押さえつけ、膝の上で固く拳を握り締めるだけで精一杯だった。

 人が減り、浦野家の家族も、意味ありげな視線を送る小林の叔父叔母もいなくなって、周作はやっと少しだけほっとして息をついた。
 礼服を脱いで部屋着に着替える。
 水汲みのため井戸まで天秤棒をかつぐのは、最近はずっと周作の役目だった。明日からは、彼女の仕事だ。
 道は暗いのに、今日はほのかに明るい。炊事場の窓から明かりがもれている。周囲が真っ暗なだけに、そこだけが月の光のようだ。
 母のはずがない。
 引き戸を開けて入ってきても、無心に洗い物に取り組んでいる娘はこちらに気づきもしなかった。どことなく別の世界の住人で、人には見えない景色を見る、夢見るまなざしだ。
 周作ははじめて、まじまじと花嫁の横顔を眺めた。晴着の上にもう割烹着を見にまとい、食器をこすりながらも唇には微かな笑みすらある。周作も、その緊張感のなさにふっと力が抜けた。
 彼はこれほど責任と重みを感じたのに、この娘は淡々と、至極当たり前のように早くも家の事をしている。
 家族と別れた悲しみもなく、無心に、楽しげに、まるでずっとここにいたかのように自然だった。
 祝言の当日だというのが嘘のようだ。
 今にも歌を口ずさみそうな横顔を避けて後ろから近付く。割烹着が晴れ着を隠しているからさっきよりましだった。つとめて平静を装いながら、後ろから手を伸ばしカーテンを引いた。
「明かりがもれよる」
 彼女は、はっと驚いたように身をすくめて緊張と恥じらいを見せた。髪に飾った椿の花弁が揺れすんなりした細い小さな体に、脂粉のかけらもない生の柔らかいうなじが目に入った。周作には、彼女のどこにも気にいらないと思わせる箇所を見つけられなかった。幼い日に見た時にも可愛いとは思っていたが、こんなに折れてしまいそうな華奢さだっただろうか?
 彼は上背はあれ、痩せて体格もない。彼女の細さと小ささが気に入った。リンは背が高くて、彼女を買いに来る恰幅のいい軍人たちにもたれかかって絵になる様に劣等感を感じていたものだ。

 扉を開けて外へ出、風呂に火をつけるまで、じいっと立って静かにこちらを見ているのが随分長い時間に思えた。
 祝言の最中にもちらちらとこちらを伺う気配はあったのに周作も気付いている。ふとまた、不安に思う。
(わしは、すずさんの気に入らんじゃろうか?どんな風にこの人の目に映っとるやろう。一言も喋らんとずっとむっつり黙りこくって、暗い奴じゃ思うとりゃせんか)

 風呂に入りんさい、と声をかけた時には、彼女はハガキに便りを書いているようだった。
 周作は新床の布団を自ら敷いた。
 するすると何のこだわりもなく皿を洗ったりほほ笑んだり、旅行に来たかのように上手な絵を交えたハガキをのんびり書いたりしている。この風呂や布団の意味を彼女はわかっているだろうか?
――あの人、ばけもんじゃった?
(浦野すずなら、わかっていないのもありそうな話じゃ。頭から食われとっても腹に入るまで気付きそうもない)
 思わず笑みがこぼれて、体がほぐれたのを感じた。すると突然、空腹が襲ってきて、ひどく腹がすいていることに気がついた。彼女の荷物を傍らに寄せようとして、風呂敷包みに刺さっているカサが目についた。


「周作、ほんまにこれでええん?」
 径子が弟に詰問すると、何がじゃ、ええよと弟は短く答えた。戦争の状況は厳しくなっている。
「もう少しゆっくり考えてもえかったんやないの?なんやバタバタ決めてもうて、あんたはほんまに納得しとるん?」
「姉ちゃん、ええんや。わしは大丈夫じゃけえ」
 親の心配を解きたい、大人にならなければならないとはただの口実で、弟はこの世の全てに対して無力な自分を忘れたいだけなのかもしれない。
(周作、まかしとき。姉ちゃんがすぐに追い出してあげるからな)
 径子はきっぱりと決心した。
(なんやそんな親の言いなりになりよるような、張り合いのない、意思のない子なんぞつまらんやろう。好き好かれた人と暮らす喜びも知らんまま可哀想や。周作が名前あげたかて、どうせ適当言うただけじゃのに。お母ちゃんは何の反対もしやせんし)
 径子は、周作がすずとはじめてまっすぐ対峙したときの、うっすらと沸き上がってきた喜びの予感を知らない。

 干し柿を食む風呂上がりの上気した頬に、白い肌が際立っている。
 彼女はずっと何も口にしていなかった彼を気にしていた。口から食べて安心とは、わしはばけもんとは違うがな。
(わしが笑うとる。ほんの数刻前までは笑えるとは思いもせんかった)
 周作は改めてはっきりと意識した。これは確かにあの時の少女だ。ふわりとした気配、声の抑揚と響き、左下のほくろ、鼻の線も肩の形も、どこか夢見るようなまなざしにも、一つ一つに覚えがある。間違いはない。
「あのう、周作さん。うちらどっかで会いましたか?」
「うん、会うたで。あんたは覚えとらんか」
 記憶の中のお下げ姿の少女が目の前でみるみる育ち、若い娘の姿となって周作の前に膝を揃えていた。
 とうにどこかに置き忘れ、思い出しもしなかった少年の声が周作の中で甦った。
――可愛いなあ。ほんま可愛かったわ。よっしゃ、大きゅうなったら嫁にしたろ!覚えとるか、わしを助けてくれたじゃろ、嫁になれや言うたら、ほわんと首を傾げて、何やようわからんけどええよ、と言うじゃろう。
 可愛い頬を横に向けて赤くなり、相変わらずどこか夢見ているような視線でいるから、周作が膝を前に進めて近づいたのにも気付いていない。
 彼女は面影を失わずにいてくれた。今ここにいる。手を伸ばせば届く。何度も何度も触れようとし、空を切った少年の夢がまことになってそこにある。
 頬に触れてはじめて、小さく体を震わせてさらに赤くなった。
 彼女は振り払わない。頬に当てた手に細い指が重なる。
 周作の胸は熱くなって、体も気負うのを強く感じ、小さい頭に唇を寄せた。
(この子はもう、わしのもんじゃ。これからほんまの嫁にする)
 心に不思議な喜びが満ちてきて、苦い涙も押し流して行く。周作はあえてその流れに逆らって戻ろうとはしなかった。あれほどしがみついていた甘い悲しみの記憶までが、手から離れ流れて背後に消えていった。
 周作は振り返らなかった。
 目の前の無垢の存在だけに気をとられ、そこに彼女がいる事実に溺れていた。
 真っ白の雪だ。
 男の手を知らない頬を撫で唇を味わう。緊張と震えが心地よい。小さくて細い肩に、ゆっくりと腕を回して抱いた。
(優しゅう、怖がらせんように、逃げんように気を付けなあかん。初めての時、女は痛い言うけえ)
 体の震えを何とかして止めようと、何度も唇に、頬に、あのほくろに口付けをした。確かに実在してこの腕の中にいると、何度でも確かめるように。


 円太郎としても、女郎でさえなければ誰でも良かったわけではない。息子がやけになって適当に名前を言っているのかもしれなくて、そこは見極めたいと思っていた。
ある程度は入念に調べても何一つきずは見当たらなくて、やって来たのはおっとりとした小柄な娘、素直で性質のいいのはすぐに見て取れた。挨拶もきちんと三つ指をつき、笑顔を絶やさない。すっと台所に立つのも何の抵抗も緊張もなく、のんきで大人しい。
 結婚式の日の息子の様子は気になったが、なるようにしかならない。何も見ないふりをした。


 翌日になると、嫁は早くから起きて食事の用意を整えていた。
「朝早うから起きてきて、お母さんは寝とりんさって、うちがみんなやりますけえ言うて来ましたわ」
「ほうか、良かったのう」
 妻が心から喜んだ様子でいるのが何よりほっとした。
 食事は味も良ければ食材の無駄もない。住所さえ知らなかったのにはどれだけのんびりかと驚いたが、その抜けているのもほどよく可愛げがある。
(あんまり賢しらなんよりええわ。こりゃあ、思うたより首尾は上々じゃわい)
 息子は自信に満ちた顔つきをしている。
 昨日とはうって変わった落ち着きだ。機嫌の良さが見え隠れする。表情が明るくなったのを父親は横目で見守った。
 まあ、結局は周作が自分で選んだ娘を添わせてやれて良かった、と円太郎は一人うなずいていた。


 幸せだ。
 気恥ずかしさもあって両親の前では努めて平静を保ち家を出たが、周作は心からそう感じた。これは罪だろうか?だとすれば何への?昨日までの鬱屈が嘘のように消えている。何をこだわっていたのだろう。過去には戻れないが、もう何も思い出せない。綺麗に塗り替えられてしまった。腹の底から沸き上がる幸福感を止められない。声を上げて歌いたい。屋根から叫びたい。わしの嫁は世界で一番、可愛い女やと!
 折れそうに細い手首を握り締めて彼女の温もりに包まれた記憶が何度も何度も反芻される。
 彼女の全てが腕の中で溶けて消えそうに柔らかい。
(ああ、気持ちええ空じゃ)
 母の喜びが嬉しい。父の満足げな顔にも反感は起きない。反発して耳に入っていなかったすべてが本当だった。子供だった。何もわかっていなかった。リンへの思いが消えたわけでもなく、彼女を心から愛したことも真実だが、昨夜一晩で何かが、決定的に入れ替わった。

「すずさん」
 名前を呼んでも、動転しているのか返事も出来ずにいる。息をつとめて押さえ、周作は彼女の耳許に囁いた。
「すずさん、ええか?」
「どうぞ…」
 やっと聞こえる、消え入りそうな声で彼女は答えた。
(浦野すずやったあの子はわしに添うように作られとった。小さい日から、出会うたあの日から、すずさんはずっとわしを待ってくれとったんじゃ)

 リンと出会ったあの日、世界は大きく広がって、見えなかったものを見、知らなかったことを知った。この世は平坦でも一様でもなくて様々な陰影があった。
 その世界に今朝は突然、色がついた。
 これまでは褪せた色のない景色だったと、気付きもしなかった。
 空は青くどこまでも青く、家々の屋根も木々も石も土もみな、彩り鮮やかに周作に迫ってくる。
(はよう帰りたい。顔が見たい。声が聞きたい。すずさんがまだおるんか、幻と違うか、触れて確かめたい)
 洗われていく。
 濁りも涙も怒りも苦痛も、彼女の中に吸いとられ浄化されていく。
 世界はこんなにも広く、そしてどこまでも美しい。











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